牧野佐二郎(1906 – 1989)は、北海道帝国大学の農学部を卒業すると、理学部の創設とともに農学部から理学部に移った動物学者・小熊捍のもとで助手になる。1930年のことである。このとき中谷宇吉郎も助教授として理学部に着任し、2年後には教授となる。牧野が助教授になるのは1935年、教授となるのは戦後の1947年である。したがって中谷宇吉郎のほうが牧野佐二郎より職位の面で先輩格であり、年齢も6歳上である。
中谷宇吉郎は物理学科、それに対し牧野佐二郎は生物学科の所属だから、日常的な交流はなかっただろう。とはいえ、二人に接点がなかったわけではない。
牧野がこんなエピソードを書き残している。
私は中谷宇吉郎先生の淡彩の色紙を1枚もっている。先生が低温科学研究所にこもって人工雪の研究をなされていた頃のことで、ある会合でビールの少々はいった先生がご気嫌[ママ]で即興的に書いて下さった。この色紙の讃に、先生は「静けさは巷(チマタ)に在り」という句をつけて下さった。解釈は人それぞれに異なるであろうが、先生が私に研究のテーマやアイデアは、巷にも身辺にもあり、それをキャッチしてモノにしろとさとされたものと私は解している。先生が雪の人工結晶を作るために、ウサギの毛を用いたアイデアを想い、私はそこに先生のいわれる巷にありを感ずるのである(注1)。
戦後のことである。牧野を中心に関連分野の研究者たちが政府に強く働きかけた結果、1969年に「動物染色体研究施設」が北海道大学理学部の附属施設として設置された。牧野自身が、国内外の研究者たちの賛同意見書などを携え、「当時大蔵省の大臣であった福田氏にお目にかかって設立をお願いした」のであった。初代所長には、その牧野が就いた。
とはいえ、同施設の建物がまだなかった。そこで当面は既存の建物に仮住まいしなければならない。そのせいで再び中谷宇吉郎との接点が生じる。牧野が書いている。
…仮の住居となった建物は故中谷宇吉郎先生が昭和10年(1935)に雪の結晶の研究をはじめられた由緒ある元の低温研究所の分室である。その殆ど全部を実験室として改造し、二階に3室の新実験室として書庫[正しくは、新実験室と書庫であろう]がつくられた。文献図書室、セミナー室、組織培養室、暗室、冷凍室、写真室など、小さいながら独立機関としての体制ができたのである。研究所の周囲には恐らく故人(中谷先生)の趣味で植えられたと思われる、ゆかしい植物が生いしげり、季節の花を楽しませてくれた(注2)。
牧野にとって中谷は、敬慕する先輩だったのであろう。
注1) 「拾った研究仕事」『動物学雑誌』第88巻第4号、1979年、pp.387-389. 牧野によれば、この稿は『蟻塔』16(10)、1970年、pp.1-3 に発表した「研究中の“不意の出来事”」に「補足修飾を加えた」ものである。その「研究中の“不意の出来事”」では、「先生が低温科学研究所にたてこもり雪や凍上の仕事をなされていたご丈夫の頃」となっている。したがって、1939年以降、1945年より以前のことであろう。
注2) 牧野佐二郎『我が道をかえりみて』私家版、1985年、p.44