中谷宇吉郎のラジオ出演

日本でラジオ放送が始まったのは、1925年のことである。東京・大阪・名古屋で放送を開始した。翌年、これら3つの放送局が統合されて社団法人日本放送協会となり、日本各地に放送局を開設していく。それとともに放送番組の充実も図り、ニュースだけでなく、音楽や演芸、ラジオドラマ、スポーツ中継なども放送するようになっていく。

1941年暮に太平洋戦争が始まるや、ラジオは大本営発表の媒体という色を濃くしていく。そうなる少し前の1940年、中谷はラジオに2回出演した。科学者としてラジオに出演した最初期の人たちの一人ではなかろうか。

1回目は1940年9月11日(水曜日)で、夕方の6時25分から「低温実験室だより」と題して講演した。新聞のラジオ番組コーナーに「講演 札幌発「低温実験室だより」北大教授理博 中谷宇吉郎」と掲載されている。札幌からの中継だったのだろうか。6時45分から次の番組「産業ニュース」が始まるので、講演の長さは20分弱だっただろう。

2回目は12月28日(土曜日)の午前10時20分からである。「家庭の科学化」と題して講演した。このときも20分ほどの講演だったのではなかろうか(注1)。

このころの中谷は、文章でも「科学化」をテーマにしている。「この頃科学振興の基礎は、国民全体の生活の科学化にあるといふ議論が沢山出てゐる」という書き出しで始まる随筆「科学化小論」(『学燈』1941年11月に発表)や、「わが国在来の住宅は、今日のいはゆる科学的な立場から批判すれば、色々な難点があげられる」と始まる「住居の科学化」(「日刊工業新聞」1941年9月)などである。時代が「科学化、科学化」と叫んでいたのである。

ところで、北海道帝国大学で中谷が親しく交わった同僚に、吉田洋一がいる。吉田は数学教授でありながら、随筆も物した。そして「林檎の味」という作品の中で、ラジオ番組に出演したときの中谷の話しぶりをとりあげている。

…いつか友人のN君が放送をしたときのことが思ひ浮んで来た。

 N君は元来関西に近い方の出身で、東京生れの私などとは、大分アクセントが違ふのであるが、言葉そのものは立派な標準語なので、長年つきあつてゐるうちに自然と耳馴れてしまつて、その頃は少しもさういふことに気がつかないやうになつてゐた。

 所が、ラヂオできいてみると、いつもとちがつて、非常に変にきこえる。例へば、雪といふのを、恰も着物の「裄」のやうに、yuki, yukiと発音するのが実に耳障りなのである。或は、これは私ひとりだけの感じかとも思つてみたのであつたが、その後二、三日して同僚一同が会食したとき、偶然この話が出たら、あの放送をきいたほどの人は言ひ合したやうにみんな私と同じ印象を受けたらしい(注2)。

吉田がこれを執筆したのは1942年はじめと思われ、中谷が「雪」という言葉を頻繁に繰り出したらしいことからすると、ここで話題になっている放送は、中谷が1940年9月に出演した「低温実験室だより」だったのではなかろうか。

この「林檎の味」をはじめ、吉田洋一が戦前・戦中に書いた随筆は、1943年に『白林帖』と題した一書にまとめられ甲鳥書林から出版された。その書の「あとがき」に吉田がこう書いている。

 折にふれて書流した雑文をあつめて本の形で出版することになつた。量はまことに少いが、それでも無精な私がともかくもこれだけのものを書いたのは、ひとへに畏友中谷宇吉郎氏の扇動によるものであつて、同氏に対しこゝに御礼を申述べておきたい。…

吉田洋一と中谷との交友ぶりがうかがえる。


注1) 読売新聞の番組欄によると、中谷の講演のあとは、昼の0時5分から「大衆物語「鍬とり劔法」山本周五郎作 轟一郎【伴奏】東管【指揮】紺野毛利夫」が放送されることになっている。しかし当時は、番組が切れ目なく放送されていたわけではない。

注2)吉田洋一『白林帖』甲鳥書林、1943年、pp.70-71(初出は『現代』1942年3月号)。原文では yuki の u の上にアクセント記号が付いている。なお、中谷も吉田もある事情から、甲鳥書林と親しい関係にあった。