すばやく動き出す

北海道帝国大学理学部で敗戦後はじめての教授会が開かれた、1945年8月18日。その日、札幌の街では様々なデマが飛び交っていた。「道庁の屋上にソ連旗が翻っているそうだ」「東京に敵が上陸して一両日中には札幌に来て市中を銃剣附きで巡察する」「明日から政府が変わるので今日中に貯金の払い戻しをしないと貯金が取れなくなる」などなど。新聞には「止めよ、疑心暗鬼」「紊すな、祖国再建の歩調」などの見出しで、注意を喚起する記事が出た(注1)。

教授会で「軍事研究をカモフラージュするように」という趣旨の話があってまもなく、中谷は列車に乗って東京に向かう。「8月24日の真夜中、当分杜絶になるといふ最後の連絡船に乗って本州へ渡つた」と、随筆「流言蜚語」(『春艸雑記』所収)に書いている。

この「8月24日の真夜中」とは、「8月24日になったばかりの真夜中」という意味ではないかと思われる。というのも、8月24日から、100トン以下の民需用船舶を除き一切の航行が連合国によって禁止され、青函連絡船も運航を中止したと、当時の新聞(北海道新聞1945年8月26日)に報じられているからである(注2)。

函館から海を渡る前に「一寸仕事の関係で北海道の田舎の或る村へ寄つた」とも書いている。「或る村」とは、狩太村(現在のニセコ町)のことであろう。したがって、中谷が札幌を発ったのは、遅くとも22日のことだったと思われる。

中谷が東京に向かったのは、戦時中にニセコアンヌプリ山頂の着氷観測所で推進していた研究を、理学部教授会で指示されたように「純学術的なものに或は平和産業方面のものに切替へ実施」するため、具体的には、農業物理の研究へと転換する手はずを整えるためであった。18日に教授会があってから、なんと数日のうちに中谷は動き始めたのである(注3)。

青函連絡船では、樺太から引き揚げてきた人たちが、折り重なるようにして甲板に寝ていたという。中谷は「地獄絵のやうな場面を見続けながら」3日かかって東京に着いた(注4)。

札幌から東京まで、列車で、太平洋戦争が始まる前の1930年代半ばなら25時間ほどであった。それが3日もかかったというのだから、敗戦後の混乱ぶりがうかがえる。

ちなみに中谷は、1930年代の半ばころ、札幌「夜9時発函館までねて、東北線を昼1時から翌朝7時迄のる鈍行」(34時間)を利用するのが好きだったようだ。もう少し所要時間の短い、「午後4時55分の急行(船で寝て上野翌夕7時)」(約26時間)、あるいは「朝9時50分の急行(東北線でねて翌朝10時半上野)」(24時間40分)もあったようだが(注5)。


注1) 北海道新聞1945年8月18日、19日
注2) 青函連絡船はその後、北海道と本州の連絡という特殊事情により運行が解禁され、26日から運航を再開した(北海道新聞1945年8月26日)。
注3) 着氷研究から農業物理研究への転換の詳細な経緯については、拙著『中谷宇吉郎』第4章を参照されたい。なお中谷が狩太村に立ち寄ったのは、吉村丑蔵を訪れるためだったのだろう。ニセコアンヌプリ山頂に着氷観測所を建設するにあたっては、同村で土木請負業を営む吉村が重要な役割を果たしてくれていた。
注4) 中谷宇吉郎『春艸雑記』生活社、1947年、p.239, p.249
注5) 中根良平ら編『仁科芳雄往復書簡集 II』みすず書房、2006年、p.784