前回の記事「ボーデン社を訪れた背景」で、中谷宇吉郎が石黒忠篤に宛てて書いた書簡に言及した。この書簡を含む「石黒資料」について記しておこう。拙著『中谷宇吉郎 人の役に立つ研究をせよ』(ミネルヴァ書房)のp.324で<石黒資料>と表記したものである。
戦前から敗戦直後にかけ農林官僚・政治家として活躍した石黒忠篤(1884-1960)は、1942年8月に半官半民の組織として東亜農業研究所を設立し、その理事長に就いた。そして終戦直後の1945年9月22日、東亜農業研究所は財団法人日本農業研究所と名を改める。
その日本農業研究所の資料室に、貴重な資料が残っていた。一つは、中谷宇吉郎が農業物理研究所の設立や運営をめぐって石黒忠篤の助力を得るにあたり、中谷から石黒に送った書簡や文書類である。もう一つは、『石黒忠篤伝』(岩波書店、1969年刊)の執筆を担当した木村昇が、武見太郎など石黒が親交をもった人々にインタビューした時の手書きメモである。それらが別々の封筒に入って残されていたのである。
この資料を発見したのは、2014年3月のことである。中旬のある日、日本農業研究所のホームページを見ていると、トップページの一番下に、「資料室にある書籍などのうち不要なものを廃棄する。3月中に申し出があれば譲ることもできる」といった趣旨の記述があることに気づいた。中谷が農業物理研究所の理事長に石黒を迎えたことを知っていたので、もしかしたら…、と思ってさっそく電話をかけ、27日に訪問の予約を入れた。
雨が土砂降りの日だった。案内された地下の資料室にも、湿気が充満していた。テーブルを並べて2メートル四方ほどのスペースが作られ、そこに雑誌や書籍などを大まかに分類し、紐で縛って山積みにしてある。順に見ていくが、どれもこれも農業政策に関する文書類ばかりである。中谷宇吉郎と関係するものなど、ありそうにない。やっぱり無いか。
もう諦めかけた時のことである、こんもり膨らんだA4サイズの封筒が2つ、紐で縛った山の中にあることに気づいた。紐を解いて封筒を取り出してみると、一つには「農業物理学研究所」と表書きしてある。中を見ると、中谷から石黒に宛てた書簡や、農業物理研究所の計画書や寄付金一覧などではないか。やった!
しかしもう一つの封筒は、得体が知れない。手書きのB5版くらいのメモが十数枚クリップで留めてある。クリップはもう錆び付いている。紙をめくってみても、まさに走り書きでえあり、そう簡単には読めない。
でも、「木村昇」の名刺が何枚も入っていた。これで、ピンときた。木村が『石黒忠篤伝』を執筆するために取材した時のメモに違いないと。だとすれば、木村が武見太郎に会って、中谷が敗戦直後に武見のところにやって来た時のことを武見から聞いたメモが含まれているはずだ。そう思い、目を凝らして探してみると、案の定、あった(注)。
日本農業研究所の担当者に、これら2つの封筒をぜひ譲って欲しいと申し出た。すると、他にも欲しいという人がいるので調整が必要だという。そこで、2つの点を強調して、ぜひ宜しくと頼み込んだ。中谷と北大との関係を考えれば北大にあるのがふさわしい、また北海道大学の文書館などに寄贈して誰でも利用できるようにする、と。
その後、これら2つの封筒は5月の連休明けになって私の手元に届いた。内容をゆっくり調べたあと、秋になって北海道大学の大学文書館にそっくり寄贈した。今後も研究に活用されることを願っている。
注) 『中谷宇吉郎 人の役に立つ研究をせよ』のp.104に「走り書きメモ」として記したものである。