ボーデン社を訪れた背景

中谷宇吉郎は、1949年に3ヶ月ほどアメリカを訪れたとき、有名な乳業会社ボーデンの工場を視察し、そのときの感想を随筆「シカゴの牛乳会社」に書いている(注1)。雪氷科学者たちと交流するために渡米した中谷が、なぜ乳業会社を訪れたのだろうか。

…多量に消費されるアメリカの牛乳の生産法を、一度見ておきたいと思つて、シカゴのボルデンといふ有名な牛乳会社の工場を見せて貰つた。

随筆「シカゴの牛乳会社」では、こうさらりと書いた中谷であるが、1955年に書いた随筆「或る牛乳工場の思い出」では、依頼に応えての訪問であったことを明かしている(注2)。

一九四九年に、短期間アメリカを訪ねた時、雪印乳業会社からの依頼で、アメリカの牛乳工場を視察したことがある。

ではなぜ雪印乳業が「雪の科学者」たる中谷にこんな視察を依頼したのだろうか。調べてみると、どうやら同社には深刻な事情があったらしい。『雪印乳業史』にこんな記述がある。

[北海道軍政部マーゲンス少佐の後任として1948年8月]バングローバー獣医官が着任した。同官は…以後二カ年、いわゆる「バングローバー旋風」といわれるほど徹底した工場査察を行った。同官の査察態度は、…牛乳処理状況の微細にわたり、わずかの欠陥も許さない強硬なものであった…。当局の査察方針はますます強硬で、ついに…同衛生部へ登別牛乳処理場の市乳処理禁止を勧告、同衛生部は同処理場に対し…五日間、操業停止処分を発動するという不祥事も起きた(注3)。

というわけで同社では、本社や各工場に工場衛生管理委員会を設け、改善推進班が担当の事業所などに出かけて、「改善を要する事項はその場所で即刻実施、必要資材は現物のある限り優先的に手配し、経費は緊急支出を認めて善処させた」。

同社は対応に必死だったのである。当然、アメリカはどんな具合なのだろうと思ったであろう。そこで渡米する中谷に、本場の実情について視察を頼んだということなのだろう。

こうした背景を知って改めて中谷の随筆「シカゴの牛乳会社」を読んでみると、ははんと思うところがある。

中谷は、「アメリカの製乳会社が、こんなに清潔に且つ能率的に仕事をしてゐることを、日本の同業者に見せて、日本の施設を向上させる」ために、工場内の写真を撮らせてほしいと案内してくれた技師長に頼み、技師長の姿とともにあちこちの写真を撮らせてもらったという。また一日50万ポンドの牛乳をわずか300人の人員で処理していると知るが、「日本の同種の工場との比較は遠慮しておくこととしよう」とも書いている。

しかしまだ疑問が残る。そもそも雪印乳業と中谷に、どんな結びつきがあったのだろうか。

中谷は1947年11月14日に、同社の本社(札幌)で開催された「製乳技術総合研究発表会」で、「国土の科学」について特別講演を行なっている(注4)。さらに遡ると1946年の春ごろ、中谷は自らが主宰する農業物理研究所のために、雪印乳業の前身である北海道興農公社から10万円を寄付してもらっている(注5)。したがって遅くともこの頃には、中谷と雪印乳業(北海道興農公社)との間に接点ができていたわけである。

もう一つ、高野玉吉の果たした役割も無視できないと思われる。高野玉吉は戦時中、中谷の指導のもと、ニセコアンヌプリ山頂に設置された風洞を使って着氷の研究を行なっていた。雑誌『低温科学』に論文を5編「風洞による着氷の研究(I~V)」発表してもいる(注6)。

その高野が1948年に「雪印乳業株式会社に入社。科学研究所勤務、研究課長」となった(注7)。同社では、1946年4月に本社の機構改革を行なったのにあわせ、戦時中からの酪農科学研究所をいっそう充実させた。乳製品部門を扱う第一課、皮革や薬品などを扱う第二課に加え、「とくに物理部門の新展開を目ざし、第三課をおき研究スタッフの充実をはかった」のである(注8)。

中谷のもとで物理学的な研究に携わっていた高野玉吉も、こうした流れの中で、同研究所に就職することになったのであろう。中谷はすでに同社とつながりを持っていたから、おそらくは中谷の口利きもあったことだろう。

そして雪印乳業株式会社が中谷に、アメリカの製乳工場を視察して来てくれるよう依頼するにあたっては、今度はこの高野が両者の橋渡し役を務めたのではなかろうか。

なお『雪印乳業史』は、同社の酪農科学研究所に物理部門を設けたおかげで、「粉乳の乾燥機構や粒子構造について新しい知見を得、乾燥能率の向上対策は一段と進歩した」と述べている。高野が、同社の同僚とともに著わした書籍『食品工業の乾燥』や『食品工業の流動と輸送』は、こうした研究成果をもとにまとめたものと思われる(注9)。

中谷の随筆をいろいろな角度からつついてみると、また新たなことが見えてくるものである。


注1) 1949年8月。随筆集『花水木』(文藝春秋新社、1950年)所収
注2) 「或る牛乳工場の思い出」『百日物語』(文藝春秋新社、1956年)p.154
注3) 雪印乳業史編纂委員会(編集)『雪印乳業史』第1巻、1960年、pp.652-3
注4) 同上、p.599
注5) 中谷宇吉郎から石黒忠篤に宛てた5月30日付書簡。前後の文面から判断して、1946年のものと思われる。
注6) 高野は1911年北海道に生まれ、1930年北海道庁立苫小牧工業学校を卒業、さらに1942年東京物理学校(東京理科大学の前身)理化学科を卒業して、翌43年に北海道帝国大学理学部助手、低温科学研究所嘱託になった。
注7) 高野が著わした書籍『食品工業の流動と輸送』(1961年、光琳書院)と『食品工業の乾燥』(1962年、光琳書院)にある「著者略歴」にこう記されている。しかし正確には「雪印乳業株式会社」でなく、その前身の、北海道興農公社から誕生した「北海道酪農協同株式会社」とすべきであろう。しかし本稿では、記述が煩雑になるのを避けるため、原則としてどの時期も雪印乳業株式会社として記述している。
注8) 『雪印乳業史』第1巻、p.643
注9) 高野はその後、1955年雪印乳業株式会社科学研究所所長、61年東京工場長、66年同社技術顧問などを歴任し、日本乳業技術協会常務理事にも就いた。