国葬日に地鎮祭とは

『中谷宇吉郎』(ミネルヴァ書房刊)の77頁に記したことであるが、中谷は1943年春からニセコアンヌプリ山頂に着氷観測所の建設を開始し、6月5日に頂上で地鎮祭を行なう。この日はちょうど、山本五十六の国葬日だった。

しかも中谷たちは、この日、単に地鎮祭を執り行なうだけでなく、アンヌプリへの入口にある青山温泉に「関係者一同」を招待している。皆、たいへん喜んでくれ、観測所の建設に協力してくれるというので安心したというから、それなりのもてなしをしたのであろう(注1)。国葬が執り行なわれる日に、このような祝いごとをして差し支えなかったのだろうか。

こんな疑問から、当日6月5日の新聞を見てみた。すると、たしかに山本五十六を弔う記事が大きく出てはいるが、それ一色というわけではない。それどころか、「元帥の心を忘れず/形を捨てゝ実につけ/けふ国葬日を迎ふ家庭人心得」と題した記事には、情報局第一部林情報官の談話として、こんなことが書いてある(注2)。

各家庭では弔旗を掲げて一家こぞつて午前十時五十分には遙拝をする、あとの時間は国民として毎日することをそのまゝやつていたゞきたい

しかも大東亜民族航空増強連盟が前日の4日に会合を開き、山本元帥の国葬日に因んで毎月5日を「「航空増強日」とし全国的に行事を開催する」と決めたくらいである(注3)から、航空機への着氷防止に資する研究施設の地鎮祭は、むしろ6月5日にふさわしい行事であったかもしれない。

要するに、山本元帥への追悼の念に耽ってなどいられない、「元帥の遺志を継」いで「米英撃滅への憤激、敵愾心」を片時も忘れてはならない、ということだったのだろう。

なお中谷は、着氷観測所が完成したときにも祝賀の宴を開いたようである。親友の茅誠司がのちにこう語っている(注4)。

北大の今総長をはじめ、沢山の名士がニセコアンヌプリの山頂まで登って、お祝いの赤飯を食べた。そして夕食には山麓にある青山温泉に招かれた。鯉の洗いなどが料理として並べてあり、紅白のかなり大きい餅が引出物だった。[要旨]


注1)中谷から井上直一に宛てた1943年6月7日付書簡(中谷宇吉郎雪の科学館所蔵)
注2)朝日新聞1943年6月5日、第4面
注3)読売新聞1943年6月5日夕刊、第2面
注4)茅誠司「忘れ得ぬ雪の科学者」『文藝春秋』1966年5月号、pp.308-316. 茅はこの宴(開所式)は「昭和十九年の秋」だったとしているが、昭和十八年(1943年)の誤りではないかと思われる。