小熊捍

福山甚之助と新聞「家庭」

福山甚之助と池田林儀―アムンゼンの札幌講演が機縁か―

「家庭」紙の第40号と41号(発行は1929年7月と8月)に「新興ドイツの現状」と題する記事が載った。著者は報知新聞特派員の池田林儀しげのりである。 池田は「家庭」の主宰者 福山甚之助からの依頼を受けて原稿を執筆したのであろう。だとすれば、甚之助はこれより前に池田のことを知っていたはずである。 「家庭」氏の記事「新興ドイツの現状」の冒頭で、甚之助は池田についてこう紹介している。 池田林儀氏は、先年...
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小熊捍と顕微鏡

敗戦から1週間ほど後の1945年8月25日、小熊は日本遺伝学会札幌談話会の第82回例会で、「六十年の回顧」と題して1時間あまりにわたって講演した。「小熊先生還暦祝賀談話会」を兼ねた例会だったからだ。 そのときの小熊の講演を、助教授だった牧野佐二郎がノートに書きとめている。そのなかに、こんな記述がある(注1)。 理学部長、6ヶ年。低[温]研、触媒研ヲ作ル。再ビ研究室ニ帰ルベキカヲ[考エタ]。顕微鏡ノ...
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低温科学研究所と小熊捍(その2)

1941年11月に発足した低温科学研究所は、中谷宇吉郎を中心に構想された当初の案(1939年)では、物理/気象/海洋/化学/医学及生理学 という5つの研究部から構成されるものであり、「生物」は含まれていなかった。しかし1941年11月に正式に発足した低温科学研究所では、純正物理学/気象学/生物学/医学 の4部門から構成され、「生物学」が含まれている(注1)。この間に、何があったのだろうか。 牧野佐...
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終戦前後にも活発な研究活動

北海道大学総合博物館2階の北の端に「科学技術史資料」を展示したコーナーがある。その一隅にあるガラスケース内に、一冊のノートが、ページを開いた状態で展示されている(写真参照)。 理学部生物学科の助教授であった牧野佐二郎が、敗戦前後の1940~45年10月に、読んだ科学文献の要点や、研究会での報告内容などについて書きとめたノートである。 開いてあるページの右上には小さな紙切れが貼り付けられている。かな...