北海道帝国大学

福山甚之助と新聞「家庭」

佐藤昌介(北海道帝国大学総長)をめぐって

爵位 佐藤昌介の二男 昌志まさしは、母の生家である稲田家の養子となり、稲田昌植まさたねとなった。そして1920年3月、父の稲田邦植くにたねが隠居したのにともない爵位(男爵)を継承し、1925年には貴族院議員にも選出される。 一方の佐藤家では、長男が若くして亡くなり、他の二人の男子も早く世を去ったために、五男(末子)の昌彦が佐藤家を継ぐ。佐藤昌介は1928年11月、昭和天皇の即位式に会わせて行なわれ...
「軍事研究」の戦後史

「敗戦後はじめての教授会」への補足

以前このブログに、「敗戦後はじめての教授会」という一文を書いた。その中で、敗戦から2日後の1945年8月17日に開催された北海道帝国大学の部科長会議において、「軍事研究に関連する書類などは処分せよ」との指示が各学部に対してなされたことを紹介し、以下の一文を理学部教授会議録から引用した。 但し研究は軍関係のもの、戦力に直接関係するものに在りては純学術的なものに或は平和産業方面のものに切替へ実施の事。...
その他

染色体の研究と映画への関心 ― 牧野佐二郎と映画(4)

牧野佐二郎(1906-1989)は、自伝で回想しているように、北海道帝国大学の予科に入学するとまもなく活動写真(映画)にのめり込んだ。映画とのそうした鮮烈な出会いが、のちの彼の研究スタイル、すなわち自らの研究活動に16ミリ映画を活用するという流儀に、どう影響したのだろうか。 1967年の暮、牧野佐二郎は千葉医学会の例会で「人類染色体の最近の問題」と題して講演した。それを聴いた研究者の一人が感想を書...
中谷宇吉郎

すばやく動き出す

北海道帝国大学理学部で敗戦後はじめての教授会が開かれた、1945年8月18日。その日、札幌の街では様々なデマが飛び交っていた。「道庁の屋上にソ連旗が翻っているそうだ」「東京に敵が上陸して一両日中には札幌に来て市中を銃剣附きで巡察する」「明日から政府が変わるので今日中に貯金の払い戻しをしないと貯金が取れなくなる」などなど。新聞には「止めよ、疑心暗鬼」「紊すな、祖国再建の歩調」などの見出しで、注意を喚...
中谷宇吉郎

敗戦後はじめての教授会

北海道帝国大学理学部では、1945(昭和20)年になり敗色の色がますます濃くなっても、月に1回(7月のみ2回)のペースで教授会を開催していた。8月は、10日金曜日に開催し、触媒研究所の教官人事などを審議するほか、疎開についても相談している。 疎開の経費を文部省に要請したが、支払ってもらえないだろう。そこで大学本部に、講座あたり1万円ずつ手当てしてくれるよう交渉する、ついては疎開させる物品のリストを...
その他

研究室の歴史

北海道大学で連綿と行なわれてきた、科学史の教育・研究についてまとめました。北海道帝国大学の時代から今日までをカバーしています。