「軍事研究」の戦後史「夏の学校」とアジア財団 『「軍事研究」の戦後史』の第5章で、1961~62年に「東洋文庫」に対するアジア財団からの資金援助が、軍事研究との絡みで問題視されたことを紹介した。 このアジア財団が、自然科学の領域で巻き起こした波乱についても記しておこう。東洋文庫の件があってから3年後、物理学会などの米軍資金問題が持ち上がる2年前、1965年のことである。 この年、素粒子物理学の分野の研究者たちが中心になって、神奈川県大磯で国際... 2016.12.21「軍事研究」の戦後史
「軍事研究」の戦後史三村剛昻の葛藤、被爆した物理学者として 物理学者の三村剛昻(みむら よしたか)は、戦後の1952年に原子力の研究を始めようとする動きが日本の学術界に出てきたとき、広島で被爆したという自らの体験もあって、原爆の開発につながりかねないとして強く反対した。しかしその三村も、前年の日本学術会議総会では、『「軍事研究」の戦後史』の第2章に記したように、「戦争を目的とする科学の研究には絶対に従わない」という姿勢を声明で示すことに対し、反対意見を述べ... 2016.12.20「軍事研究」の戦後史
「軍事研究」の戦後史「敗戦後はじめての教授会」への補足 以前このブログに、「敗戦後はじめての教授会」という一文を書いた。その中で、敗戦から2日後の1945年8月17日に開催された北海道帝国大学の部科長会議において、「軍事研究に関連する書類などは処分せよ」との指示が各学部に対してなされたことを紹介し、以下の一文を理学部教授会議録から引用した。 但し研究は軍関係のもの、戦力に直接関係するものに在りては純学術的なものに或は平和産業方面のものに切替へ実施の事。... 2016.11.22「軍事研究」の戦後史
その他研究で得た賞金を生活費に ― 牧野佐二郎 牧野佐二郎は、1942年に雑誌『キトロギア』に発表した論文(体細胞に染色体対合を誘発できたという実験を報告したもの(注1))で、賞金をもらった。その使い道について、牧野は1970年にこう書いている。 月給85円の時代に200円の賞金は目のとび出るものであり、貧乏暮しで子供を育てていた家内と2人、ありがたくいろいろなものを買わせていただいたが、そのとき求めた25円の英国製ベロアの帽子はいまでも冬にな... 2016.10.27その他
その他牧野佐二郎と顕微鏡 前回「小熊捍と顕微鏡」で述べたように、小熊捍は顕微鏡で精確な観察ができなくなったのを機に、研究の最前線から身を引いた。小熊の弟子、牧野佐二郎も同様だったようだ。 牧野は「なにかに打ち込んでいなければきがすまない」(注1)気性で、定年退職後も顕微鏡を覗いていたようだが、最晩年になると、「今は目が悪くなり顕微鏡はみられなくなったので家畜の染色体異常の文献の仕事を自宅で」することになる(注2)。 その牧... 2016.10.26その他
その他小熊捍と顕微鏡 敗戦から1週間ほど後の1945年8月25日、小熊は日本遺伝学会札幌談話会の第82回例会で、「六十年の回顧」と題して1時間あまりにわたって講演した。「小熊先生還暦祝賀談話会」を兼ねた例会だったからだ。 そのときの小熊の講演を、助教授だった牧野佐二郎がノートに書きとめている。そのなかに、こんな記述がある(注1)。 理学部長、6ヶ年。低[温]研、触媒研ヲ作ル。再ビ研究室ニ帰ルベキカヲ[考エタ]。顕微鏡ノ... 2016.10.25その他
その他染色体の研究と映画への関心 ― 牧野佐二郎と映画(4) 牧野佐二郎(1906-1989)は、自伝で回想しているように、北海道帝国大学の予科に入学するとまもなく活動写真(映画)にのめり込んだ。映画とのそうした鮮烈な出会いが、のちの彼の研究スタイル、すなわち自らの研究活動に16ミリ映画を活用するという流儀に、どう影響したのだろうか。 1967年の暮、牧野佐二郎は千葉医学会の例会で「人類染色体の最近の問題」と題して講演した。それを聴いた研究者の一人が感想を書... 2016.09.23その他
その他映画「牧場の春」とは ― 牧野佐二郎と映画(3) 牧野佐二郎が、映画への病が高じ製作仲間にも加わったという映画「牧場の春」とは、どんな映画だったのだろうか。また牧野は、どんな役割を果たしたのだろうか。 『北海道映画史』をまとめた更科源蔵は同書で次のように書いている。 この年[1924年]だったかその翌年だったか、記録にも当時の人にもはっきりしていないが説明者協会の人々によって『牧場の春』という映画がとられた。脚本、主役松浦翠波、女優さんに水島キミ... 2016.09.22その他
その他映画の雑誌「サトポロ」とは ― 牧野佐二郎と映画(2) 生物学者の牧野佐二郎が仲間に加わって出したという「「サトポロ」という映画の雑誌」は、いったいどんなものだったのだろうか。 1925年6月に創刊された「さとぽろ」という雑誌がある。編集を担当した外山卯三郎の下宿、桑園館(北3条西14丁目)を発行所とし、博文舎(南2条西8丁目)で印刷したもので、「北海道大学の学部と予科の学生、それに予科の先生」8人による同人誌である。「さとぽろ」という誌名は、「バチェ... 2016.09.19その他
その他牧野佐二郎と映画(1) 染色体の研究で知られる生物学者の牧野佐二郎は、自らの研究を動画(16ミリフィルムの映像)に撮りためていたし、学会発表などでも動画を活用した。また東京シネマ製作が、映画「ヒトの染色体―生命の秘密を探る―」(文部省学術映画シリーズ18、1966年)を製作するにあたっては、自ら監修するなど研究室をあげて協力した。この映画は、科学技術映画祭優秀作品賞など、いくつかの賞を受賞する。牧野佐二郎と映画(科学映画... 2016.09.18その他