重水素とトリチウム

重水素がD,トリチウムがT と書かれるのはなぜか

重水素が Deuterium,三重水素(トリチウム)が Tritium と呼ばれるようになったのは,どうしてか.また,水素の同位体にだけ固有の名称,固有の記号があるのはなぜか(炭素14やウラン238など他の元素の同位体には特別の名称がない).これらの疑問に,重水素の存在が確認されてから数年間の化学者や物理学者たちの議論を通して答える.
重水素とトリチウム

ハンスギルグとは,いかなる人物か

ハンスギルグ(Fritz Johann Hansgirg)なる人物が「重水に関する情報」を朝鮮窒素肥料株式会社の研究部門にいた田代三郎にもたらし、野口研究所が「重水の製造」について研究する遠因になった。そのハンスギルグとはいかなる人物か、その経歴などを明らかにする。
重水素とトリチウム

野口研究所で重水製造の研究を始めたきっかけ ― 田代三郎の回想

野口研究所が「重水の製造」を研究テーマとするにあたっては、久保田正雄からの提案のほか、田代三郎(のち野口研究所常務理事)からの提案も契機となったと思われる。その田代の回想を紹介する。
重水素とトリチウム

理化学研究所を東京都立大学の大学院とする構想

東京都立大学は1949年4月に、都立の高等学校や高等専門学校など6校を統合し、人文学部・理学部・工学部からなる公立の新制総合大学として誕生した。その設立準備の過程で、原子核物理学者の仁科芳雄を初代総長に迎え、なおかつ理化学研究所を都立大学の大学院に位置づける構想があったという。 東京都立大学(南大沢移転当初)。Wikipedia「東京都立大学 (1949-2011)」より。 1981年に公刊された...
重水素とトリチウム

中性子が発見される前、同位体はどう理解されていたのか

『重水素とトリチウムの社会史』第1章第1.1節への補足です。 F.ソディが1913年に「同位体」を見出してから、原子核の構造が次第に明らかになり、やがて J.チャドウィック により中性子が発見されて、今日のような同位体概念が誕生するまでの過程を詳しく述べています。
重水素とトリチウム

交換反応塔のなかでの反応

『重水素とトリチウムの社会史』第2章第4節にある「トレイルの重水製造工場」の項への補足です。
中谷宇吉郎

中谷宇吉郎の下宿生活

数日前の北海道新聞に、『「雪の化石」時代超え輝く/札幌の女性、北大に寄贈/「雪博士」故中谷教授50年代製作』と題した、小華和靖(こはなわ やすし)記者による記事(写真3点つき)が掲載された(注1)。概略、次のような内容である。 中谷宇吉郎は米国から帰国した1954年ごろに、札幌市内の小林國子さん宅の筋向かいに下宿するようになった。小林さんは華道を教えており、宇吉郎の下宿先から頼まれて博士の部屋に時...
その他

田中舘愛橘の初めての書『四桁の対数表』

田中舘愛橘が世に出した最初の書は『四桁の対数表:付けたり いろいろの定数および公式』である。この著作は現在、国立国会図書館のウエブサイトで公開されており、世界中どこからでも無料で閲覧でき、プリントアウトもできる。 同書の奥付(下図)に「明治19年1月25日版権免許」とあるから、「30年間専売の権」を得ていたことがわかる。明治9年に改正された出版条例により、内務省に願い出て「版権免許証」を公布しても...
その他

記録映画「北海道に於ける稲熱病防除」と映像「伊藤誠哉氏に文化功労賞」の解題

北海道大学に「北海道に於ける稲熱病防除」という映画と、「伊藤誠哉氏に文化功労賞」と題された映像が残っている。前者は1937年ごろに製作されたもの、後者は1959~62年ごろに撮影・編集されたものと思われるが、ともに無声であるため、内容がよくわからないし、その価値も理解できない。 そこで、これら二つの映像作品の解題を試みて見た。その概要を、きょう、大学の総合博物館で開催される土曜市民セミナーで報告す...
「軍事研究」の戦後史

『「軍事研究」の戦後史』への、訂正と補足 

拙著『「軍事研究」の戦後史』の読者の方から、第5章の参考文献の一部に誤りがあるとの指摘を頂いた。確認したところ、たしかに誤りがあり、また追加もしたほうがよいと考えたので、次のように訂正したい。p.190(の後ろから2行目)から p.192 の箇所である。 本文 これに対し、研究チームのリーダーであり論文の筆頭著者でもある河岡は、こう反論した(17a)。悪用のリスクを…米厚生省の勧告に法的拘束力があ...