福山甚之助と新聞「家庭」福山甚之助と池田林儀―アムンゼンの札幌講演が機縁か― 「家庭」紙の第40号と41号(発行は1929年7月と8月)に「新興ドイツの現状」と題する記事が載った。著者は報知新聞特派員の池田林儀しげのりである。 池田は「家庭」の主宰者 福山甚之助からの依頼を受けて原稿を執筆したのであろう。だとすれば、甚之助はこれより前に池田のことを知っていたはずである。 「家庭」氏の記事「新興ドイツの現状」の冒頭で、甚之助は池田についてこう紹介している。 池田林儀氏は、先年... 2022.06.12福山甚之助と新聞「家庭」
福山甚之助と新聞「家庭」『山峨女史産児制限法批判』を読む 『山峨サンガー女史産児制限法批判』を、国会図書館の「個人向けデジタル化資料送信サービス」で読んでみる。 山本宣治著『山峨女史家族制限法批判』国立国会図書館デジタルコレクションより 表紙の右下に赤字で「以印刷代謄写」すなわち「印刷を以て謄写に代える」と記されている。 当時、「文書図画を出版するとき」は発行日の3日前までに製本2部を添え内務省に届け出る必要があった(1893年の出版法第3条)。そして場... 2022.06.09福山甚之助と新聞「家庭」その他
福山甚之助と新聞「家庭」サンガー夫人の来日(3) 1922年に初来日したサンガーは、その後も何度か日本を訪れた。 初来日から14年後の1936年3月、インドやマレーシアの各地で産児制限の講演をして米国へ帰る途中、日本に立ち寄った。しかし新聞も「サンガー夫人がヒョッコリ忘れられて居た顔を現わした」と書いたくらいで、大きな話題になることはなかった。石本静枝に会い、講演を1回しただけで、すぐにホノルルへと向かった。産児制限に賛成していた神近市子(注1)... 2022.06.05福山甚之助と新聞「家庭」その他
福山甚之助と新聞「家庭」サンガー夫人の来日(2) 産児制限について日本で講演しようとするサンガーに対し日本政府(の一部)は警戒心を抱いた。しかしサンガーの著作物(図書や論文)はすでに、来日の少し前から次々と翻訳され、国内に出回るようになっていた。そしてサンガーが日本に上陸した後の3月14日からは読売新聞が、彼女が途中ハワイに立ち寄ったときに行なった産児制限の講演を、「内務省当局の理解ある検閲を経」て4日間にわたり文芸欄に連載した。 日本に滞在中の... 2022.06.02福山甚之助と新聞「家庭」その他
福山甚之助と新聞「家庭」サンガー夫人の来日(1) 国会図書館のデジタルコレクションで『山峨サンガー女史産児制限法批判』を読むに先立ち、サンガー夫人の来日の経緯についてざっと調べてみた。同書は、彼女の来日を機に出版されたものだからである。 アメリカの産児制限運動指導者であるサンガー夫人(Margaret H. Sanger; 1879-1966)については、伝記などがあるものの、1922年に日本を初めて訪れたときの様子については詳しく述べられていな... 2022.06.01福山甚之助と新聞「家庭」その他
その他個人向けデジタル化資料送信サービス 利用した感想 国立国会図書館で「個人向けデジタル化資料送信サービス」が5月19日より始まった。同図書館がデジタル化した資料のうち、大学図書館や公立図書館などに出向けば閲覧できたものが、自宅でも(個人でも)閲覧できるようになったのだ。さっそく、前々から見たいと思っていた『山峨女史家族制限法批判』(1922年)など何冊かを閲覧してみた。 これまでも、大学図書館に行けば、そこに設置されたパソコンで閲覧できた。だが、図... 2022.05.27その他
福山甚之助と新聞「家庭」江別饅頭,煉化餅 ミニコミ紙「家庭」に,江別饅頭や煉化餅 がしばしば登場する.たとえばこんな具合である. …内地へ行って帰ることになると,せめて三越あたりで子供に何か珍しいものと云うことになり,それが自分の子供だけで済まなくなるからますます事が面倒になる. ところが道内の旅行となると,根室や,樺太くんだりまで行ってきたのでも,行く者も,残っている者も,そんな点は一行平気で,せいぜいで江別饅頭か煉化餅くらいで済むから... 2021.10.04福山甚之助と新聞「家庭」
重水素とトリチウム核分裂の研究が公開されなくなるまでの経緯 核分裂が発見されるとほどなくして,米国や英国の科学者たちはナチス・ドイツによりそれが軍事利用されることを危惧して,核分裂に関する新たな研究成果を秘匿するようになる.研究の成果は広く公開するという原則で行動してきた科学者たちのあいだで,「研究成果の秘匿」がどのように進められていったのか,その経緯を,同時代の物理学者L.シラードの証言や,物理学史家 S.Weart の研究などをもとにまとめてみよう.(... 2021.09.26重水素とトリチウム
その他「北大理学部の心意気」がウエブサイトに 北海道帝国大学理学部が1930年4月に開校して間もないころ、若き教官たちが自由闊達に活躍していた様子をいくつかのエピソードで描いた「理学部の心意気」。理学部広報誌『彩』の90周年特集号(2021年3月発行)に寄稿したものだが、このたび理学部のウエブサイトにも掲載された。 中谷宇吉郎や、朝永振一郎、W.クロル(外国人教師)、岡潔、堀内壽郎、鈴木醇、牧野佐二郎などが登場する、短い読み物である。 なお、... 2021.09.18その他
重水素とトリチウム杉浦兼松のがん研究と重水 重水が手に入るようになって間もない1934年、ニューヨークで、重水でがんの増殖を抑えることができるのではと考えて研究した日本人がいた。杉浦兼松である。野口英世や高峰譲吉とも交流のあった杉浦が、米国で研究するまでの経緯についても紹介しよう。 2021.09.14重水素とトリチウム